城南宮と源氏物語〃花〃の庭

「如何に思召すにか、九案の彼方鳥羽と言う処に、池山広う、面白う造らせ給へぱ」(栄華物語)と城南(鳥羽)離宮は、白河上皇の院政の府として造営せられ、鳥羽・後白河・後鳥羽法皇とうけつがれた。平安末期のその離宮の結構は、和様文化の結品であり、貴族文化の最後の光亡でもあった。壮観なる風池で行なわれた法妻や管弦の遊ぴ、やぶさめを初めとする奈礼や歌会は、平安のあらわれであった。
賀茂川の氾濫もさることながら南北朝、応仁と続く戦乱による寝殿堂宇の哀滅、林泉苑池の消滅にもかかわらず、城南宮の信仰が、「春の山」の緑を今日に伝え、城南離宮の名を護って来たのである。藤原氏の一族季綱の献上によって営まれた城南難宮の地は、醍醐天皇延喜元年(西暦九○こ九月十五日、儒学者大蔵善行の吉稀の祝宴が開かれた右大臣藤原時平の別業「城南水石享」のあとであった。時平が築いた北家藤原氏の繁栄は、十一世紀初頭の道長の栄華に極まるが、その一方中央政界からは次第に遠ざかる藤原氏一族の多くは歌才・文才に秀で、蜻蛉日記の道綱の母などがいる。こうした一族の文学的環境のなかで紫式部の源氏物語が生まれるのである。時平以来一族の長者が繰り広げた宮廷の政と祭、後宮を含める人脈による栄枯盛衰、様々な見聞によって脚色された源氏物語であるが、なかでも春夏秋冬の御殿に夫々の女性が住む光源氏六条院の四季の庭こそ、平安時代の理想の庭であり、藤氏中興の祖時平の城南水石享の景観を写すものであった。自河院が、藤原勢力への対抗としてうち出した院政の拠点と選んだ城南の地は、皮肉にも藤原時平の別業の跡であり、末裔季綱の献上によってなったが、源氏物語四季の庭は、この城南離宮にあって初めて現実に「四面に四季の山水を作り、四時析々の景色ことの葉も及ぱれぬぱかりの風情なり」(築山山水庭造伝)を完成したものであった。
城南の地は古来交通の要衝であるがために波乱の渦中に巻かれること度々であったが、鳥羽の稲田と詠われもした歴史的な田園の風景も、近時の市街化の波に消えようとしている。そうしたなかで、平安調神殿と、春の山、平安の庭を含む神苑(楽水苑)が、離宮時代の建築美と庭園美を伝え、王朝和様文化の薫を遺しである。
紫式部の光源氏邸の庭の思想上の系統を継ぐ城南宮の庭に、源民物語に所載の花の木、実のなる樹が繁茂し、草花が成育し四季を彩るのも、悠久の過去と現在が結ばれている証しである。この源氏物語ゆかりの庭が、将来にわたって、平安文化に親しむよすがとなるとともに、多くの人々の生活のやすらぎまないのである。

昭和五十五年四月一日
城南宮宮司 鳥羽礼自




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