「曲水の宴」の由来春の禊春暖の陽気は人々の心をはずませるが、一方、疫病のはや
りをもたらすものであって、中国であれ、日本であれ、純朴な古代の民衆は、野山の
川原に出、水を浴み身を清め、無病息災を祈る信仰が続いていたのである。此の春の
みそぎは、奈良・平安時代に、大宮人の春の雅遊となって曲水の宴に発展し、平安時
代、貴族の姫の雛かざりとかさなって、三月三日の桃の飾句(雛まつり)へと進展し
たのである。三月上巳の日日本書紀、顕宗天皇元年(485)「三月上巳(二日)後苑
に幸して曲水の宴きこしめす」と、又、「公卿大夫・臣・連・国造を集へて宴を為す
」とあり、宮中儀式にとりあげられ、やがて公卿文人の遊ぴに、後には大名・町民の
曲水の宴として、それぞれに楽しみ遊ばれて来たのである。城南難宮の雅遊平安王朝
源氏物語絵巻にみるような前栽を流れる遣水に著き、歌の道の上手、公達女房達の催
す曲水の宴こそ風流と云えましょう。城南離官は、光源氏の邸宅、六条院の四季の庭
を理想として、春秋の築山・池泉をこしらえた模様であり、ここで屡々歌会が催され
たのである。