京都市伏見区下鳥羽中島宮ノ前町28
〒612京都南インターチェンジ南200メートル、国道1号線東側、
200台収容無料駐車場有り
JR京都駅より地F鉄・近鉄、竹田駅下車、無料送迎バス(15分毎)有り
電話(075)623-0846、611-0575FAX(075)6110785
3月梅
ご祭神
国常立尊(くにのとこたちのみこと)天地開開と共に出現された国土形成の神。
八千矛神(やちほこのかみ)「国作り」を完成された大国主命(おおくにぬしのみこと)の、武神としての別名。
神功皇后(じんぐうこうごう)仲哀天皇の皇后で、天皇崩御後政治を司られた。安産の神でもある。
歴史
神功皇后(じんぐうこうごう)の軍船の印であったという日・月・星を象った三光(さんこう)の紋の入った御旗に、八干矛神(やちほこのかみ)の御霊をつけて、上古より当地でお祀りしていた。そして平安遷都の析、国常立尊(くにのとこたちのみこと)を合わせ祀るようになり、これをもって城南宮のご創建とする。そしてこれ以後都の守護神と仰がれた。平安時代の末に白河上皇が、この地に壮大な離宮(城南離宮、鳥羽離宮)を造営して院政を開始されると政治・文化の中心の地となり、『平家物語』など当時の文学作品にもしばしば登場する。そして祭礼はいよいよ盛んになり、多くの人が参詣した。例えば永暦元年(1160)9月20日の祭礼では、馬場殿に後白河上皇がお着きになって暫くしてから幣が渡り、次に神馬・田楽・巫女・舞人・乗尻(のりじり)・獅子・神輿の行列か埼(らち)の中を東から西の本社の方へ向かって進んで行き、また競馬(くらべうま)が七番行われたことが『山枕記(さんかいき)』に記されている。その後承久3年(1221)後鳥羽上皇は流鏑馬(やぶさめ)の武者揃えと称して城南離宮に鎌倉幕府追討の兵を集められた。これがいわゆる承久の乱である。また慶応4年(1868)には、薩摩藩兵が城南宮に陣を構え、上洛する徳川幕府軍を砲撃して戦となった。この鳥羽伏見の戦いに幕府軍は敗北しやがて明治維新を迎えることとなった。このようにこの地は幾度となく歴史の転換の舞台となってきたのである。
また平安時代、貴族等は方角の禁忌を避けるためにしぱしば「方違(かたたが)え」を行っており、この離宮の地が方違えの宿所に選ばれることも多く、さらに上皇以下貴族が紀州の熊野や吉野の金峰山に参詣に出掛ける際には、道中の安全を祈って城南離宮で身を清めて出発する習わしであった。こうして、鬼門や方角の災厄を除く方除(ほうよけ)、旅行安全、さらには建築工事守護の神として篤い信仰が寄せられるようになり、文久元年(1861)皇女和宮様江戸下向の道中安全のご祈祷を仰せ付かり、また同じ年、佐賀藩医花房駿の『漫遊日記」に「城南離宮に城南宮を祭り、方違の符を出すとぞ」(4月10日条)と記されている。
つたへくる秋の山辺のしめのうちに祈るかひある天の下かな 後鳥羽院
民の戸も神の恵みにうるふらし都の南宮居せしより摂政 藤原良経
鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな 与謝蕪村
五月雨に築地くずれし鳥羽殿のいぬゐの池におもだか咲きぬ 与謝野品子
信仰とご利益
方除(ほうよけ、鬼門や方角の災厄を除く)、転宅安全、建築工事守護、旅行安全を祈願してご祈祷を申し込み、また「方除札(ほうよけぶだ)」や「清めの御砂」を授かる参拝者が絶えない。城南宮のご祈祷は1週間以上にわたって続けられ、「方除札」は気掛りな方向に向けてお祀りし、「清めの御砂」は土地や建物の回りに撒いて清めると良い。また新築工事の場合は、さらに「鎮め物」と「上棟神札(むなふだ)」をお祀りする習わしである。また交通安全祈祷殿で自動車のお祓いを受け交通安全を祈願する人も多い。平成8年竣工の神楽殿では、会社繁栄、工事安全のご祈祷さらには結婚式も行える。
社殿
流れ造りのご本殿・変形入母屋造りの前殿・そして左右に伸ぴる翼廊が一体となった城南宮独特の建物である。昭和53年の造営であるが、総槍造りで、槍皮葺の緩やかに流れる屋根、また飾り金具の細部に至るまで平安時代後期の様式に統一されており平成8年造営の寝殿造りを取り入れた神楽殿とともに、この地が一番栄えた鳥羽離宮時代の様子を偲ばせるに足る優美なたたずまいを呈している。
庭園
神苑一楽水苑(らくすいえん)一ご社殿を取り囲むように広がる神苑一楽水苑一は中根金作氏の作で昭和の名園の誉れが高く、春の[白・平安の庭・室町の庭・桃山の庭・城南離富の庭からなり、日本庭園史上画期をなす時代の庭園のそれぞれの特徴と情趣を堪能することができる。また『源氏物語』に登場するほとんどすべての植物(100余種)が植栽された植物文化園である。
春の山
鳥羽離官の遺構「秋の山」と対をなす小山で、春には様々な花で彩られ、また顧の小川の瀬音か清々しい。この顧の小川で、半年間の桟を小川に流して心身を清める「人形(びとがた)流し」が、6月の末に行われる。
平安の庭
殿舎を背景に広がる池には巾之鳥が有り、段落(だんおち)の滝と遣水(やりみず)が音静かに注ぎ、自然の趣をいかして作られた平安時代の庭園の特徴をよく備えている。有名な鳥羽僧正のr鳥獣戯画』の景色はここ鳥羽離官の庭といわれ、絵巻さながらに秋の野の草花が池畔に花を咲かせる。4月29日と11月3日に、平安の雅を今に伝える曲水の宴(きょくすいのうたげ)」が行われる。
室町の庭
池泉廻遊式の静寂な庭で、茶室一楽水軒一の前には礼拝石、池中央の蓬莱島(ほうらいじま)の奥には三尊石と、峻厳で風格のある石組みが配される。色とりどりのツツジを観賞しながら楽水軒でお抹茶をいただくことも出来る。
桃山の庭
水を使わずに海を表現した枯山水様式の庭園で、広々とした芝生は紀州の海を、点在する石組みは小島を、背景の大きな刈り込みは海岸の丘陵を表している。桃山時代の気風を映す、明るく豪快な庭園であり、春には紅枝垂桜が見事な花を咲かせる。
城南離宮の庭
城南の地が最も華やかであった離宮時代の様子を象徴する枯山水庭園。白い玉砂利が池を、石組みが寝殿造りの建物やお堂を表している。本殿の回りには日本各地の著名神社の小祠がお祀りされているが、参道沿いに次の三社かお鎮まりになっている。
三照宮(さんしょうぐう)
北向きに鎮座するお宮で天照大神をお祀りする。
真幡寸(まはたき)神社
平安時代に編纂された『延喜式』神名帳にも登載された古社であり、誉田別尊(ほんだわけのみこと、応神天皇)、真幡寸大神を祀る。若宮社ともいう。
芹川(せりかわ)神社
菅原道真公をお祀りし、l学問の神様として篤く信仰され、合格祈願の絵馬が数多く奉納されている。社号を記した石柱に「唐渡(からわたり)天満官」とあるのは、鎌倉時代に禅宗僧侶の問に起った、菅原道真公が宋に渡り禅を修めたという唐渡天神(ととうてんじん)の信仰による。
祭りと行事
湯立神楽(ゆたてかぐら)(1月20日、午後2時)本殿前
祭典、巫女(みこ)四人による祓神楽(はらえかぐら)奉奏の後、一人の巫女が杓取(しゃくとり)の儀といって天の水を「文政六年笑未」(1823)の銘を持つ太釜に汲み入れる所作を行い、次いで塩で釜を祓い、沸き立つ湯に洗米・酒を入れる。そして御幣(ごへい)の舞を舞い、また笹の葉を湯に浸し勢いよく湯浦を参拝者に祓い注ぎ、悪病退散・願望成就を祈願する。神楽終了後には『方災難除守(ほうさいなんよけまもり)』と「招福・無病息災」と記した短冊を結んだ福笹か参拝者に授与される。
城南宮七草粥の日(2月11日、午前9時から午後4時)城南離官斎舘
「源氏物語』若菜の巻にちなみ、セリ・ナズナ・スズナ・スズシロなどの七草をご神前に供えた後、七草粥を食し、春夏秋冬の病を予防し、延命長寿を祈願する。
方除大祭(ほうよけたいさい)(4月第2金曜日から3日間)本殿、拝殿
城南宮の崇敬者を中心とする大祭で、遠近の参拝者で賑わう。本殿での祭典に引き続き、拝殿では日本各地の神楽や郷土芸能が奉納される。
曲水の宴(きょくすいのうたげ)(4月29日・11月3日、午後2時)神苑楽水苑
王朝時代を偲ばせる雅やかな行事。平安時代の装束を身につけた男女の歌入が庭の中の流れに沿って座ると、川上から童子が、水鳥の姿にこしらえた「羽膓(うしょう)」に朱塗りの盃をのせて流す。歌人は「羽膓」が流れ来るまでに和歌を詠み短冊にしたため、そして盃を取り上げてお酒をいただく。宴の間には白拍子(しらぴょうし)の舞も披露されいっそう興趣を添える。
夏越の祓(なごしのはらえ)(6月30日、午後3時)拝殿前斎場、春の山膜の小川
夏の風物詩ともいえる日本古来の風習で、まず参列者全員で「大祓の詞(おおはらえのことば)」を唱え、ついで列をなして「茅の輪(ちのわ)」をくぐり抜ける。そして神苑の春の山に進み、紙の人形(びとがた)に半年の間の罪や桟(けがれ)を移して「祓(みそぎ)の小川」に流す。こうして罪・桟を祓い捨てて心身を清浄にし、これからの暑さに負けないよう、また残り半年の無病息災を祈願する。
城南宮では6月25日から30日までの間、午前9時より午後4時半まで、随時「茅の輪くぐり」と「人形流し」を行うことができる。
ジャンボ茅の輪(7月1日から7日、午前9時より午後4時)第1駐車場
直径5メートル近い大型の「茅の輪命(ちのわ)」を設け、お祓(はらい)のうえ自動車ごとくぐり抜けて半年間の交通安全を祈願する。例祭(お涼み)(7月20日)本殿」午前9時より祭典を執り行う。タ刻には本殿前に「方除安全」「無病息災」の木札を収めた2本の氷柱を供え、参拝者は氷柱に触れて祈願する。また夕方にはお涼み神楽が奏される。
城南祭(神幸祭)(10月第3日曜日)本殿
平安時代の末の記録にも見える歴史ある祭礼。午前9時より祭典を執り行う。正午過ぎより、重さ1.5トン近くある3基の豪華な神輿が氏子区域を渡御になり人々の大きな楽しみとなっている。タ刻、提灯と松明の明かりの中、l神社に神輿が還御(かんぎょ)する様子は壮観である。江戸時代の頃には祭りの来客に餅をふるまう習慣があり、餅祭(もちまつり)とも呼ばれた。
逃げていぬ袖へもくれつ餅祭 不二丸
火焚祭(ひたきさt、)、火焚神事(11月20日、午後2時)交通安全祈祷殿前斎場
参拝者の祈願が込められた数干本もの火焚串を忌火で焚き上げ、また参列者全員で「大祓の詞(おおはらえのことば)」を唱えて無病息災、家内安全を祈願し、さらに二名の舞女が「浦安の舞(うらやすのまい)」を奉納して平安を祈念する。
名物
離宮茶屋
境内に有り、方除けぜんざいやおいしいおそばがいただける。
おせき餅
城南宮の西にあり、江戸時代、京都と大阪を結ぶ街道を行き来する旅人の評判を集めたおせき餅がいただける。
付近の史跡
鳥羽離宮跡(秋の山)
鳥羽離宮の中で最初に出来上がった南殿の跡地が整備されて
公園になっている。北側の小高い丘が秋の山である。
白河天皇成菩提院陵
この地に離官を営まれた第72代自河天皇の御陵で、当時の泉殿の地に当たる。
烏羽天皇安楽寿院陵
第74代鳥羽天皇の御陵で、現在の法華堂は慶応元年(1865)に建てられたものである。
近衛天皇安楽寿院南陵
第76代近衛天皇の御陵で、現在の多宝塔は、慶長11年(1606)に豊臣秀頼の命によって再建された。
安楽寿院
保延3年(1137)鳥羽上皇が東殿の御堂として造営された寺で本尊の阿弥陀如来座像は平安時代末期の作で重要文化財に指定されている。