第四回から、いきなり「ですます調」から「である調」に突然変異してしまい、失礼しました。
おかげさまで、MJチョートクカメラ日記も7月1日よりスタートし、そっちの方は「である調」(日記で「ですます調」は変ですよね)なので、本連載は「ぐっと知的に丁寧に」をモットーに「ですます調」で進行します。
この両者の日本語の使い分けというのは、これは外国語にはありませんね。
「我が輩は猫である」と「私は猫です」では、これは前者の方が「文学している」わけでしょうが、当連載は、当面最初の文体に戻ります。
さて、外国行きばかりの話で恐縮ですが、この前のパリ、リスボン行きが4月の話で、5月は日本に居て、6月はまた海外で、イスタンブール、ウイーン、パリを廻って来ました。
持参のカメラはデジカメも持って行きましたが、これはウエブの画像用で、本命ははやりフィルムを使う(しかもモノクロ)カメラです。
本連載「カメラ温故知新」を実際に実践すべく、持参したのは、まずはライカ1型(1925年製)。
次ぎにコンタフレックス二眼レフ(1932年製)の二台です。
何時ものことなのですけけど、海外取材に出かける直前まで、持参のカメラのセレクションでもめているのです。
昔は、完璧に仕事の写真でしたから、持参するカメラは「楽で写りが確実なモノ」というのが最優先で、「趣味的で、それを操作することが楽しみなモノ」というのは完全に排除されていました。
長年仕事をやっていると、そこら辺は利口になってくるので、当時持参したカメラはイオス1vとか、イオスRT(これはペリクルミラーでミラーショックがないし、安いので、仕事カメラ向き)でしたね。
さらに大きな画面が必要な時には、4x5の木製フィールドカメラを持参しました。
これは仕事カメラなのですから、当然の次第ですが、最近では、そこにややゆとりが生まれて来たので「操作して楽しいカメラ」というのが、カメラ選びの最優先事項になっております。
そうなると、オートフォーカスの一眼レフで、シャッターを押せば確実に撮影可能で、失敗は一切なし、というカメラほど、つまらないカメラはありません。
頼まれ仕事ではなく、自分の為の仕事なら、その点、持参するカメラは自由です。
自分で使いたいカメラを選んで持って行く自由。
その自由さはこれは、我ら、クラシックカメラ共和国民以外の人には、ちょっと理解できないだろうと思います。
それで6月8日から月末までの欧州行きの話ですが、コンタフレックスの方は、イスタンブールで、いざ影開始しようとしたら、巻き上げの調子が不具合であることが分かり、急遽、使用中止となりました。
なにやら出鼻をくじかれたようで、これは面白くありません。
イスタンブールの数日間は、それがしゃくに触るのでデジカメばかり使っていました。
数日後、ウイーンに到着して、夜、ベッドの上でホテルの天井を眺めている時に、それを天啓といえば大げさですけど、突然にアイデアが閃いたのです。
「持参のライカ1型でウイーンを撮影しよう!」というのです。
これは自分の意志ではなく、正に持参のライカ1型が私に語りかけた感じでした。
実際に「ライカが私にモノを言うようになった!」などと言い出すと、これは危ない小説になりますね。
その翌日から、まさに狂ったようにウイーンの町を歩き廻り、撮影をし続けました。
ライカ1型はライカの最初のモデルですから、距離計もなく、メーターもついていない、シンプルさが、これはまさに「温故知新」と言いましょうか、その事が型遅れで不便というのではなく、逆に手で操作し、目で光を測ることが、私をして、ウイーンにより接近を可能にさせたのでしょう。
古いライカで撮影することが、次々に新しい局面を切り開き、ウイーンの最初の晩から10日後には、すでに2004年にウイーンのギャラリー、WEST
LICHTでの写真展と、東京で出版する写真集[30 YEARS WIEN/ CHOTOKU TANAKA
1973-2003](東京キララ社刊)の話が決まっていました。
こういうのを「ライカの不思議なパワー」とでも言うのでしょうか。
いえ、これは「ライカ1型の不思議なパワー」と言うべきでしょう。
今回、ライカM7なんか持参していたら、そこまで研ぎ澄まされた感覚にはならなかったに違いありません。
実に「温故知新」の不思議さを感じたライカ1型との旅でした。
|